1976-05-12 第77回国会 衆議院 法務委員会 第9号
私どもの記録と照合いたしますと、現在の中野刑務所、当時豊多摩刑務所と言われていたのが東京拘置所ではないかと思いますが、そこに収容中、昭和二十年の九月二十六日、腎臓炎のために死亡したということでございます。
私どもの記録と照合いたしますと、現在の中野刑務所、当時豊多摩刑務所と言われていたのが東京拘置所ではないかと思いますが、そこに収容中、昭和二十年の九月二十六日、腎臓炎のために死亡したということでございます。
その後、小菅刑務所、中野刑務所が加えられ、また、豊多摩刑務所は浦和刑務所と名称変更されました。いまの中野刑務所は、これは豊多摩刑務所とかつて戦時中申しておりました。終戦直後にこれを浦和に移転した形で、浦和の施設を使ってそれが豊多摩刑務所ということになったわけでございます。
私は、実は先般私が豊多摩刑務所におった時代に、私を長い間担当していただいた方が——これはいまだから申しますが、私に対して非常にあたたかい処遇をしていただいたわけなんです。別に法を犯してまでではございませんが、何か私が間違いを起こしても怒ることなく、常にあたたかい注意をしてもらった方がある。
まず、法務省設置法の一部を改正する法律案の要旨を申し上げますと、その第一点は、刑務所の新設の点でありまして、東京都中野区にあった豊多摩刑務所の施設が米軍の軍刑務所として使用されてきたのでありますが、昨年九月二十五日、右の使用が解除されて日本政府に返還されましたので、今回この施設に所要の整備を加え、同所に中野刑務所という名称の刑務所を新設しようとするものであります。
第二点は、現在浦和市に所在する豊多摩刑務所を浦和刑務所と改称することであります。 本案は、三月二十二日本委員会に付託され、政府の説明を聞き、五月十一日質疑を終了し、討論もなく、直ちに採決いたしましたところ、全会一致をもって原案の通り可決いたしました。 以上、御報告申し上げます。(拍手)
○相川委員長 次にお伺いしますが、豊多摩刑務所は連合軍の軍刑務所として使用してきたのでありますが、これが使用が解除されて日本政府に返還されております。そうすれば軍の刑務所はどうなります。ここが解除されてほかになお米軍の刑務所があるのでございますか。
大阪工業研究所で試験が行われましたのは、豊多摩刑務所その他六庁分の一部についてでございますが、その結果に基きまして、全国百二十四カ庁の分全部が同様に下級品であるというような推定を受けた結果、右のように五百四十万という損害という数字が出てくるのでございます。
それで、内閣の方としましては、二月の二十六日までにこういう予算関係の法律は全部閣議を通して、そうしてすぐ国会に出すことで、統一をとつておつたのでございますが、刑務所の設置問題、これはまあ私の所管じやございませんけれども、聞くところによりますると、豊多摩刑務所が今度軍の方から解放されまして、そして中野刑務所といたすと、その中野に中野刑務所として再開することについて、地元からも相当の反対もごさいましたし
第一の刑務所の新設は、昭和二十一年四月東京都中野区にあった豊多摩刑務所の施設が連合軍に接収され、さらに昭和二十七年七月二十六日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定第二条により、アメリカ合衆国軍隊に提供せられ、同軍隊において引き続き軍刑務所として使用してきたものでありますが昭和三十一年九月二十五日右の使用が解除されて、日本政府に返還されましたので、これに所要の整備を加へ同所
第一の刑務所の新設は、昭和二十一年四月、東京都中野区にあった豊多摩刑務所の施設が連合軍に接収され、さらに昭和二十七年七月二十六日、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定第二条によりアメリカ合衆国軍隊に提供せられ、同軍隊において引き続き軍刑務所として使用してきたものでありますが、昭和三十一年九月二十五日、右の使用が解除されて日本政府に返還されましたので、これに所要の整備を加え、
その増員の主な内訳を申し上げますと、第一は旧豊多摩刑務所が駐留軍から返還になりまして、そのあとを中野刑務所として開設いたす予定でございますので、それに伴う要員百五十八名の増が大きなものでございます。それから、小菅刑務所の拡充に伴う増加六十二名。第三点は監獄の事務強化に伴う振りかえ増、これは刑務所の職員の増加をする必要がございますので、その六十名でございます。
すなわち、この関係におきまして、査定のところをごらん願いたいのでございますが、豊多摩刑務所の開設に伴う備品等の経費、それと、口にあります小菅刑務所、東京拘置所の移開設、これも当然の経費であると思いますが、収容者の処遇の改善というところで、金額はわずか四十四万二千円という数字が出ておりますけれども、内容をもう少し申し上げますと、三十二年度は、前年度の八万七千人の収容対象者に対しまして八万五千人という査定
矯正関係の組織へ参りますると、ここで重要なことは豊多摩刑務所、中野にございます豊多摩刑務所、それから小菅の刑務所がそれぞれ開設になるということで、人件費、二百二十人の看守の増員が認められたこと、それからこの両刑務所の開設に伴う庁費等で千二百万円の増が認められたことでございます。
さような関係で、近郷には今豊多摩刑務所、これは約九百名ばかり入れるわけであります。さようなわけで、東京都で確定いたしまする者を東京管内これは広い東京管内でございますが、これにずっと入れております。これが年間に大体五千名余り、東京都から大体管内にばらまいております。
これは豊多摩刑務所と呼ばれております。この豊多摩刑務所となったのは、以前東京都の中野が豊多摩刑務所であった。それを進駐軍が接収したために豊多摩刑務所というのが中野からはみ出してきた。これは御承知の通りであります。この豊多摩刑務所は、法務大臣もごらんになったことであろうし、場所も何もよく御承知のことであろうと思う。
件 (立正交成会問題に関する件) (京都地検における犯人誤人事件) (人権擁護に関する決議) ○大阪拘置所の都島区内移築反対に関 する請願(第三一六号)(第三二八 号)(第四六〇号) ○大阪拘置所移転にかかる国有財産不 当処分反対の請願(第一〇四五号) ○大阪拘置所の茨田横堤町移転に関す る請願(第一三〇四号) ○徳島刑務所移転に関する請願(第一 二六五号) ○東京都新井町所在豊多摩刑務所跡敷
これは、この中野区の新井町にございます豊多摩刑務所と申しますのは、現在アメリカ軍のスタッケードに接収されておるのでございまして、これはまだ確かなことではございませんが、ことしの七月にあるいは接収解除になるかもしれないのでございます。
○委員長(亀田得治君) 次は請願千四百五号、東京都新井町所在豊多摩刑務所跡敷地解放に関する請願及び千四百二十四号豊多摩刑務所移転促進に関する請願、二つを一緒に議題に供します。西村室長からの説明をお願いいたします。
五〇 大阪拘置所用地の不当処分取消に関する 請願(菅太郎君外四名紹介)(第一八三 四号) 五一 徳島刑務所の移転促進に関する請願(三 木武夫君外三名紹介)(第二〇三二号) 五二 売春等処罰法制定促進に関する請願(中 村高一君紹介)(第二〇八四号) 五三 横堤町に大阪拘置所移転促進に関する請 願(菅野和太郎君紹介)(第二一七六 号) 五四 豊多摩刑務所
なお、豊多摩刑務所及び徳島刑務所移転促進に関する請願について意見を申し述べます。 一、一般に、刑務所施設は、その建設に当っては郊外その他人口稠密ならざる地域を選択して建設するのでありますが、建設後周辺地が市街地として発展し、いつの間にか都市の中心部に位してしまう結果になるものが多い。
――――――――――――― 五月十八日 接収不動産に関する借地借家臨時処理法案(第 二十二回国会衆法第五四号、参議院継続審査) 同月十五日 豊多摩刑務所の移転促進に関する請願(松永東 君紹介)(第二二三〇号) 売春防止法制定促進に関する請願(戸叶里子君 紹介)(第二二八四号) 戸籍事務費全額国庫負担に関する請願(八木一 郎君外三名紹介)(第二二八五号) 浦和地方法務局皆野出張所設置
何も具体的事実はない、ただ第三者の一つの自白によって検挙されまして、当時警視庁の豚箱に六ヵ月、豊多摩刑務所に三年半私は独禁されました。その六ヵ月の警視庁の豚箱生活において、私は非常な拷問を受けている。それはいすにすわらされてぶんなぐる、け飛ばすは当りまえで、数時間さかさにつるされて、つるされたあげくにおなかやあるいは背中をどやされて、何べんか意識を失った。そういう拷問は絶えずです。
――――――――――――― 五月十七日 豊多摩刑務所の会計検査に関する陳情書 (第一八九 号) を本委員会に送付された。 ――――――――――――― 本日の会議に付した案件 連合審査会開会申入れの件 昭和二十八年度一般会計歳入歳出決算 昭和二十八年度特別会計歳入歳出決算 昭和二十八年度政府関係機関決算報告書 ―――――――――――――
○石田(一)委員 去る五月十九日本委員会の決定に基きまして、浦和市にございます豊多摩刑務所に収容中の川上仁郎、当時浦和税務署の直税課第一係吉岡重行、当時浦和税務署雇、徴收事務員荒木勝、当時大藏事務官、間税課第三係松岡弘裕、当時大藏事務官直税課第一係及び刑務所には收容されておりませんでしたが、本事件に関係しておりました浦和市に居住する吉田千惠子、現在浦和税務署財務局駐在員の庶務係をやつております。